2023年6月15日木曜日

長崎旅行 3日目 平和町周辺

長崎3日目。ホテルのパンオンリーはこれはこれでいいなってなりました
サンドを試すのもいいし、ホットケーキみたくするのもいいし。意外に遊べます
そんなわけで浜町アーケード西のホテルH2は結構面白い、で結論が付きました
鍵がちゃんとカードキーで露天風呂もあって、しっかりすべきところはしっかりだったしね。
2段ベッドの構造だけなんとかしてくれれば…


そんなわけでチェックアウトしたら3日目の観光、まずはスーツケースを預けに長崎駅へ。
今工事中なのですが、新しくなったらかもめ口といなさ口になるそうです。
観光客としてはかもめ口にばかりお世話になっております
ちなみにロッカーはJRかもめ口の南橋に固まって配置されていました。


3日目のルートです。長崎といえばのこっちの面、からの余り時間で行きたかった所
資料館~浦上駅と浦上駅~大波止~めがね橋~出島は市電で長崎駅までも市電
思ったより回れてしまったので市電1Day買えばよかったねってなった一日でした。
そして歩数は最多の2万歩超え、上げ底ブーツで歩く距離じゃなかったなあ。



そんなわけで長崎駅からは北の赤迫行きの市電でスタート。
全日頼れる公共交通、とことん市街観光向けである


平和公園の辺りで降りましたが、
ほとんど普通の列車みたいな路線していたので利用者数の多さが垣間見えるんだ
専用軌道なので市電なのに踏切があったりします。遮断器ないけど


そしてまず向かうは平和公園です。
長崎に来たなら行っとかないと!(ただし戦争のあれこれで悲観的になる気はない)という夫婦、
手前から入ると往復することになって面倒だねとなり、北回りで迂回して入る作戦で合意します。


そんなわけで平和祈念像のそばから入園。いや無料ですけども
ここにもちりんちりんアイスの屋台があって、ローカルメジャーって感じがします


平和祈念像ですが特にモチーフはなく、有名な彫刻家さんが造ったそうです
というよりこの色、補正くっそ難しいんですけど。
ポーズの意味やらはともかく、左右の折り鶴や像の前に置かれ続けている花たちを見るに、
まだまだ祈念をしている方々は沢山いそうで何よりです。


当時の復元図がありました。北が右になっている
平和公園は元は長崎刑務所浦上刑務所とのことで、入ってきた所の奥に壁があったそうだ


真面目に正面からの遠景。
かなり広くスペースが取ってある公園です。ここで遊ぼうって気にはならんなあ…
ちなみにこの手前左右が刑務所の遺構だとのこと。


遺構を過ぎたあたりに見える大きな鐘が「長崎の鐘」だそうです
動員学徒や女子挺身隊に徴用工、一般市民の原爆殉職者の慰霊のため1977年(33回忌)建立。


他にも各国から像が送られたのか、いくつか建っていました。
中でもソ連と中国にチェコや東ドイツと旧東側諸国からの像が沢山あったのが目に止まりました
まあ民間人の大量殺戮を前提の上で原爆落とした唯一の国というアメリカの責めどころ
使えなくはないからね、そら東側は気配りするよね。平和活動の裏だね。
そんな心の汚れた大人たちですので、平和公園を通りはしましたがさらっと通過で終わりました
入口付近、エスカレーターが新設されたそうで上り下りは楽だったよ!


平和公園を出たらそのまま爆心地公園に流れます
ココは結構のどかな雰囲気ですが、やはり遊んでいる人とかは居ません。


最初に見えたのは灯籠。銭座町付近にある聖徳寺のものだそうです
爆風に耐えたものをココに移設したそうで、雨風由来ではない奇妙な焼け方が印象的です


ここで復元図のノースアップを発見。
先程より範囲が狭く刑務所が欠けているものの自分にとってはわかりやすくて良いです
当時は75年(2020年まで)草木の生じることなしなんて言われていたんですね。


そしてやってきました原爆落下中心地。グラウンド・ゼロ!
円形の白い石積みが目を引く、爆心地としてはこれ以上ないデザインです。


中心に立っているのは原爆殉職者の慰霊塔みたいなものでした。
R4.8.9現在で奉安された(≒原爆関連死者数の合計)のは192,310人とのこと。


その脇にあったのが旧浦上天主堂遺構。(昨日行ったのは大浦天主堂)
これも最初の灯籠と同様に、500m北東で焼け残ったものを移設したとのことです
観光客としてはこうして集めてくれた方が見やすいのでありがたいです。


その脇にあるのは母子像とのこと(ニュースに記載あった)。最初アマビエ?って思ってすいません
原爆投下50年の区切りとして中心地の碑がこの像に置き換えられる予定だったそうですが、
市民団体の反対でここになったとのことです。
うんまあ、置き換える必要はなかったと思うので、ココで良いんじゃないですかね。


南東側には被爆当時の地層が展示されていました。
何千年経っとるん?と思いましたがやはり自然にこんなに底に眠るわけもなく、
戦後米の飛行場整備などに伴って埋め立てられていたのを河川改修工事で掘り起こした流れ。



掘り起こされた地層は当時の食器や炭化した建物跡がありました。
人骨もあったらしく、まあこれをキレイにするとなったら無理だから埋めようとなるのは仕方なしか



爆心地公園からはそのまま長崎原爆資料館に繋がっている感じで、
まず見えるのは平和関係の色んな碑でした。2枚めは平和の母子像
歌碑もあるそうです。


階段を登って横断歩道を渡ると資料館です。


金ピカ折り鶴とかかっこいい。真鍮製のようで板金工業組合からの寄贈だそうで
それで資料館を見てきましたが、割りかし説明はわかりやすい方でした。事実ベース
なにより日本じゃ貴重キリシタン関係の多い地域になぜわざわざ落とした…と思っていたら、
当初は八幡に落とすつもりが悪天候→長崎も悪天候で引き返しかけた所に雲の切れ目で落としたと。
当時は冷戦準備段階で2発を早く落とさなければ、という時期だったのがよく分かる慌てぶりでした
広島と違って、大分国際政治の絡んだ投下でしたなあ。


これで原爆関係はおしまい…というわけではなく、最後にもう一つ。
市電で原爆記念館に乗りますが一旦浦上駅前で降ります
1日めにここでちょっと市電を降りていて、一本柱鳥居があると知っていたのです
ちなみに奥の観覧車のある建物は長崎ココウォークというそうです



山王神社一の鳥居、かつての姿。R206から一本東にあり、こちらは完全に吹き飛んだようです
そこの4本裏から更に上にあるのが二の鳥居で、被爆で完全崩壊はしなかったものの片方だけに
もう既になにか足りない鳥居が見える。鳥居手前の土台跡は灯籠があったのかな


山王神社、二の鳥居。
まさに生き残りと言った感じで、爆心地から750m離れていてもこれだけ吹き飛ばされている
爆風の凄まじさが伺えます。
資料館で爆風などのメカニズムも丁寧に記載されていて理解しているので、
逆によく耐えた方なのかも、とも思います


それで残りはどこかに消えて埋め立てられた…わけではなく、奥に残置されていました
それでも額が欠損したりしていますが大体の形は保っており、
やはり石造りかつ距離は少し離れているので原因は熱ではなく風か。


あと下の台座はやはり灯籠で、ここの右側にその残骸が一緒に置いてありました。


奥に進むと突き当りになり、浦上街道の碑がありました。
これは原爆関係ではなく日本二十六聖人関係、
記録をたどってなんとなくなので絶対この通りではないと思いますが、
今は東の日見峠ルートなのですが昔はこんな感じに北へ大村湾に抜けていたそうです。
二十六聖人上陸の地から始まり西坂公園の記念館へ至る。


浦上街道の碑からすぐ北にあるのが先程の鳥居の先である山王神社です
早速坂本町の原爆殉難の碑がある。


元々はここが琵琶湖近くの坂本に似ているとして同じ山王…神仏習合により別名の寺を建立
後に山王日吉神社となったようです。後に浦神皇太神宮になっても山王さんと呼ばれたり
その後に被爆し壊滅するも祭典から順番に再建、1988年にほぼ旧来の姿に戻ったそうです。


新しい狛犬。なるほど再建された姿なのか
でも被災から蘇った姿は本当にたくましく感じます。


そしてこの奥にあるのが被爆したクスの木。先程さらっと説明があったけど
神社が壊滅状態、二の鳥居が柱1本失うほどの爆風でこの大クスも枯死寸前になったそうですが、
奇跡的に復活して今や長崎市の天然記念物に指定されているそうです。


2本とも結構補強は入っていました。まあ建物倒壊レベルの爆風やしそりゃあね
そんな中でも昔からあった3m上の木の穴に爆風で大きめの石が入り込んだとかいう、
爆風の凄さが想像できるエピソードはありました。立っているだけ凄い。


参道には多分生き残ったであろう灯籠。やはり少し妙な劣化の仕方をしている
掲示板には被災当時の山王神社の白写真がありました。


その奥にあるのが再建された本殿。当時に近い形にしたというのがすごい
誰も居なかったので御朱印はもらえませんでしたが、
正直鳥居と大クスの迫力がすごかったので満足です。
というわけでまた浦上駅に戻ることにします


浦上駅についたらお昼時。飛行機は夕方なのでまだ持ち時間がある
一旦出島ワーフの方に出かけますが、浜かつの本店が市内にあるね?というわけで急遽引き返します
こちらは普通の浜かつとリンガーハットの一般的な長崎チェーンセット。


市電で東に思案橋駅で降り、商店街の鍛冶市通りを北上します。
地味にR324のアーケード国道区間を横切っていたりする。端点は1駅東の崇福寺です


こちらがとんかつ浜勝本店。おお作りが古い…!
老舗の雰囲気があって、わざわざ足を運んでよかったです。


こちらとんかつ屋さんですがタレをセルフで胡麻擦って混ぜ合わせたりと自由度高い。
まあ最近のとんかつ屋さんではそこまで珍しくはないそうだけど



一部店舗のみ提供というキーマかつカレーにしました。
タレも相まってうまし!あっという間に食べられました


食後にあと行きたい所何処だ?となったら眼鏡橋で一致しました。
本当は浜町アーケードから中島川をゆっくり北東へ向かうと様々な石橋を見られたのですが、
時間に余裕がそろそろなくなっているので一点突破で向かいます
袋橋だけは見られたかな。


眼鏡橋です。
架けられたのは1634年と日本最古のアーチ石橋で、歩行者専用
鏡写しで眼鏡にできるのは袋橋からのアングルかな。


そんな橋を完成させたのがこの黙子如定というお方だそうです。
眼鏡橋の南東に像がありました


橋を渡って北岸へ。石の擦れ方が歴史を感じさせられます


階段を降りて下から眺める眼鏡橋!奥に飛び石があったので乗っかって真ん中からも撮ってみました
ちなみにハート型の石があるそうですが、それは橋を挟んで反対側にあるみたい。


眼鏡橋を堪能した帰りにシーボルトの桜がありました。
八重桜で、1866年位にこの桜が欧州に紹介されて有名になったそうです


そして時間的にあと1箇所だけ行ける…よし、出島に行こう!
昔は出っ張っていましたが、1904年には既に周辺が埋まりきったとのこと


それでも北側の中島川はそのままになっている。
この一角だけが江戸時代である


出島表門橋。きれいな橋です
結構長い木の板を歩く橋なんですが、橋桁はないそうです
全然揺れないから気づかなかった。


表門橋から入るのが出島です!門番さんと良いみんな和装でしっかりキメてる!
しかし残り時間は20分しかない
入場料はもちろん払うけどダッシュで駆け抜けます!


和風の東側、西洋の西側と言った感じです。東もどれも貿易関係ですが
蔵や外国人・出島管理者の住居などがメインです。
どの建物にもいろんな資料が展示されているのですが、
筆者欄人部屋に入って世界各地との貿易関係を見ていました


目立つ造形だったカピタン(商館長)部屋。隣のヘトル(次席)部屋でおみやげを買います
こちら側は当時の出島の雰囲気がほぼ再現されており(もう少し建物は密集していたかもですが)、
いい雰囲気になっていました。


東端にあるのが水門。
外からよく見える建物で、「ここ出島の再現になっているのかあ」と誰でも気付くきっかけになる
2つ通り口があって、輸入用と輸出用に分かれていたそうです。


1本裏に入りまして、料理部屋で当時の料理光景の再現を見たり。
食べ物だけが洋風なのが面白く、キリシタンというだけあって七面鳥が普通に焼かれておる。


長崎だと割りと普通に展示されている古い大砲。
これは青銅製で1640年、鎖国した頃位に製造されたそうです


エメラルドグリーンの手すりはカピタン部屋の北裏。
この狭い感じが住居の間を縫う感じで良い


謎に広い空間に出たなあと思いましたが、この空間は新たに建物を復元する予定だそうです
この右手前辺りの空間です。


東側はひと通り見終わったので西ぐぁの旧石倉(考古館)を見に来たら…
ココにもいるのかミッフィーよ。


西側は大きな建物と庭が中心でした。というか表門関係の正面建物を除くと2件しかない
旧出島神学校と旧長崎内外クラブでしたが、
洋風建物はグラバー園などで堪能したので撮っていなかったのでした。
キャピタン橋が小さくまとまった庭園みたいで良かったです


最後に一番西に出島のミニチュアが展示されていました。
当時の出島なので、ココが実は一番見応えがあったかもしれません
当時も西側は結構空いていたんだね。


リアル感を演出してみる。
というかミニチュアが普通に出来いいな、接写してもリアル感崩れないぞ


最後に出島の当時の姿。
これにて長崎観光は完了です!


帰りは一気に長崎駅アミュプラザ→長崎空港のお土産屋巡りでお買い物を済ませ一部郵送
夕方くらいには中部国際空港に帰りましたがなんで北上したら湿気てるんだ!?
と思ったりしながらの旅の終わりでした。
初めての街なので手当たり次第に巡った感が満載ですが、
2日め以降の晴れの運も相まってかなり堪能できた長崎でした。
市街の巡りそこねも多いですが、リンガーハット本店を巡りながら長崎ペンギン水族館や、
佐世保行ったり彼杵宿に行ってお茶飲みに行ったりもしたいと色々行きたい所が出てきたりもする
いやあ観光スポットが大量でいい街でしたおしまい

あとはおまけです
長崎市電MAP

安いのにスタバより全然焙煎感あるじゃん?って思ったアミュプラザのコーヒー屋さん


コンビニに並ぶ九州地もの市でした。


おしまい!

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